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  『シリアとエジプト


 エジプトもシリアもかつてはオスマントルコの属領だったが、トルコの支配を脱した後は、エジプトはイギリスの保護国を経て1922年に独立、一方シリアはフランスの委任統治領を経て1946年に独立と、まったく別々の道を歩んでいた。

 その両国が58年に合邦してアラブ連合共和国を成立させた背景は、「アラブは1つ」という汎アラブ主義の高揚だった。

 1952年のクーデターで王制を倒し、54年にエジプトの大統領となったナセルは、ナイル川にダムを作って砂漠を農地に変える計画を実現するために、それまで英仏資本の会社に支配されていたスエズ運河の国有化を実施。
 
 怒ったイギリスとフランスは、イスラエルも誘ってエジプトへ侵攻するが、国際世論のバッシングに遭って撤退(スエズ動乱=第二次中東戦争)。

 ナセルは西欧列強の横暴に立ち向かった第三世界のヒーローとして名を挙げ、アラブ世界を統一して帝国主義を駆逐しようという汎アラブ民族主義と、富の公平な分配によって近代開発を進めようという社会主義とを結合させたナセル主義は、アラブ各国の民衆を熱狂させた。

 そんなナセルに急接近したのが、47年にアラブ民族の統一と自由、社会主義の実現を掲げて、シリアで結成されたバース党(アラブ復興社会主義党)だ。

 シリアでは独立後、クーデターが繰り返されて政情不安定が続いていたが、ナセルの人気が高まると共通した思想を持つバース党も勢力を急激に伸ばし、シリアのみならずイラクやヨルダン、レバノン、イエメンなどにも支部が生まれた。

 バース党は各国で政権を獲得し、1つの国家に統合させることによってアラブ統一を実現しようとしていた。
             
                エジプト


 つまりアラブ連合共和国の成立は、国際的な組織を持つバース党が、国際的な大看板のナセルを担いで、アラブ統一の先鞭を付けようとしたものだった。ナセルは当初渋っていたが、バース党に説得されてノリ気になった。

 地主や資本家などを背景としたシリアの保守層も、アメリカとの同盟をバックに政局が混迷するシリアへ支配を及ぼそうとしていたトルコやイラクの脅威や、共産勢力の台頭を抑え、かつバース党の急進化をナセルが抑えてくれることに期待して、エジプトとの合併に賛成した。

 こうして58年2月には国民投票が行われ、エジプトでは99・9%、シリアでは99・8%の圧倒的な賛成で、両国の合併が決まった。

 アラブ連合共和国の首都はカイロに置かれ、大統領にはナセルが就任。国会にあたる国民会議のメンバーは大統領が任命し、それまでの政党に代わって大政翼賛会のような国民連合が結成されるなど、「アラブ統一」という大義実現のためにナセルの独裁色が強い政治体制になった。
                                       アラブ連合国 国旗
 エジプトはエジプト州、シリアはシリア州となり、それぞれに行政会議が置かれ、副大統領にはエジプトから2人、シリアから2人の計4人が任命されたが、シリア人の閣僚には実際には何の権限もなく、重要事項はナセルとエジプト人の腹心だけで決められたので、シリア人はバース党も含めて国政の重要事項にはタッチできない状態になった。

 それでもバース党は国民連合の主導権を握ってナセルを操ればいいと考えていたが、シリアで行われた国民連合の委員選挙では、ナセルに迎合してエジプト支配の下でも利益を得ようとする機会主義者たちが多数を占め、ナセルと渡り合おうとするバース党は大敗。

 59年末から60年初めにかけてバース党の閣僚たちは次々と辞任に追い込まれていった。

 同時にナセルはエジプト人のアメル副大統領にシリア州統治の全権を委任したり、「軍の一体化」を名目にエジプト人将校をシリアの軍高官に任命したため、シリアはあたかもエジプトの植民地のようになってしまった。

 そしてバース党の勢力を削いだナセルはシリアの「エジプト式経済改革」に乗り出し、金融機関や主要企業、商社の国有化や農地改革などの社会主義政策を実施したため、シリアの経済界はパニックになった。シリアの通貨をエジプト通貨と統合する方針が発表されると、シリア経済はエジプト経済に呑み込まれてしまうと危機感が高まった。

 こうしてバース党や保守層を問わず、シリア側の不満が高まるなかで、61年8月にナセルは両州の行政会議を廃止し、直接統治を行うことを決定。シリアは名目的な自治さえ奪われることになると、9月28日にシリア軍がクーデターを起こして1日でシリア全土を掌握し、アメル副大統領をエジプトへ追放するとともに、翌日シリアの独立を宣言した。

 これに対してナセル大統領は空挺部隊を派遣して独立を阻止しようとしたがすぐに断念し、10月5日にはシリア独立を認めた。

 エジプトとシリアは同じアラブ人の国だといっても、歴史を遡ればエジプト文明の国とメソポタミア文明の国で、一時の政治的熱狂で合併しちゃっても、もとからうまく行くはずはなかった。

 エジプトは国土の大半を砂漠が占めるが、シリアは穀物輸出をしている農業国で、ユダヤ商人に対抗するアラブ商人の本場として商業も盛んと、経済状況はまるで違う。面積や人口はエジプトがシリアの5倍だったが、1人あたりの所得はシリアの方が3割以上多かった。

 シリア人は「政治の実権はエジプトに握られても、経済の実権はシリアが握ればいい」と考えていたが、経済政策を決めるのは政治家なわけで、政治指導層からシリア人が排除されたら、エジプト優先の経済政策になるのは当然のこと。

 エジプトとシリアの経済一体化は、豊かなシリアにとってはエジプトに富を奪われることを意味した。

 こうして分離後のシリアでは保守層が再び政権に就いたが、バース党はエジプトとの合併に懲りたかといえばそうではなく、「失敗の原因はナセルの独裁体制であって、アラブ統一はいずれにしても必要」と考えた。

 エジプトから戻ったバース党員のシリア軍将校らが保守政権によって更迭されると、再びアラブ統一を唱えた軍のクーデターが繰り返され、63年のクーデターでバース党が政権を握ると、エジプトとシリア、そして同じくバース党が政権を握ったイラクも加えてアラブ連合共和国連邦の結成を宣言する。

 しかし前回の合併を教訓にしたバース党がナセルに主導権を奪われまいとしたため、今度はナセルの側が合併を撤回したのでした。

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