映画『灼熱の魂』より
『より、シリアを考える』
another voice「ブログChattering Class Diariesより」
「
「灼熱の魂」という内戦期のレバノン(1975-1990)を題材にした映画を見た。この映画は2011年のカナダの映画大賞を総なめにした作品で(アメリカのアカデミー賞の外国語映画部門では惜しくも大賞を逃した)、いきもつかせず130分を過ごした。作品を見てからシリアのことを思った。
映画の公式サイトにでているストーリーは
初老の中東系カナダ人女性ナワル・マルワンは、ずっと世間に背を向けるようにして生き、実の子である双子の姉弟ジャンヌとシモンにも心を開くことがなかった。そんなどこか普通とは違う母親は、謎めいた遺言と二通の手紙を残してこの世を去った。その二通の手紙は、ジャンヌとシモンが存在すら知らされていなかった兄と父親に宛てられていた。遺言に導かれ、初めて母の祖国の地を踏んだ姉弟は、母の数奇な人生と家族の宿命を探り当てていくのだった…。
主人公のナワル・マルワンはキリスト教徒だが、乗っていたバスがキリスト教民兵が固めるチェックポイントで停車を命じられ、キリスト教徒である彼女以外の乗員・乗客(回教徒)が子供も含めすべて射殺される場面に遭遇する。彼女は回教徒の組織に加担してキリスト教民兵組織のリーダーの暗殺を決行し、キリスト教民兵組織が管理する牢獄につながれることになる。牢獄から開放された彼女を引取りカナダへの移住を手配するのは彼女が加担した回教徒の組織だ。
映画だけではない。このような宗教の壁だけでは説明できない複雑な関係が現実に存在する。
レバノンが現在の「安定」(と言うよりは「国内各派の間の均衡」といったほうが正しいだろう)に到達するのに15年もかかったように、シリア情勢もまた多数の人々の血を流しながらやがては収束してゆくと思う。
ただそのような安定は、少なくとも当初は、個人の様々な体験や感情を塗り込めた上に存在する不安定なものだ。その塗り込められた体験は時として表面に噴出してくる。映画「灼熱の魂」のように表面に噴出したものが子供たちのルーツ探しで終わるなら問題は個人の次元でとどまる。しかし、噴出したものが異なる教義や宗派への憎しみとなって噴出したら…
シリアはどうなる? 」
2012年より