古代都市パルミラ
『繁栄の謎を解明』
シリアにある今日のパルミラは、雄大な廃墟が蜃気楼のように立ち並ぶ遺跡だが、歴史的、考古学的証拠から見て、ローマ帝国の支配下にあった時代には巨大な交易都市だったと考えられている。
パルミラ遺跡の調査は100年近く前から行われてきた。だが、不毛なシリア砂漠の真ん中で20万人もの人口を抱えていたこの都市がどのようにして繁栄できたのかという重大な疑問には、いまも答えが出ていない。
かつてパルミラは、アジアの品物をローマに運んだ隊商路に欠かせない中継地のオアシスだった。商人たちがインド産や中国産の絹、銀、香辛料、染料をここで取り引きした。
ノルウェー、ベルゲン大学の考古学者イェルゲン・クリスティアン・メイエル(Jergen Christian Meyer)氏は、これほどの都市がなぜ維持できたのかを突き止めるため、パルミラの北に接する約100平方キロの範囲で、2008年から4年の予定で調査を開始した。この地域を調査対象に選んだのは、ここが起伏に富む土地で、雨が降るとふだんは乾いている河床に貴重な雨水が集まり、農業の可能性がごくわずかに生じるからだ。
地表の調査と衛星画像から、パルミラの市街から徒歩数日の圏内に20カ所以上の農村の輪郭が残っていることが確認された。これまでに実施されたほかの調査からも、パルミラの西に15前後の集落が確認されている。
決定的な発見として、季節的に訪れる突然の嵐で降った雨を集めて貯める人工の貯水池と水路網の跡が広い範囲で見つかったとメイエル氏は話す。
この発見からすると、パルミラの周囲では集約的な農業が行われていたようだ。ローマ時代の文献から、栽培されていた可能性が高いのはオリーブ、イチジク、ピスタチオなど。これらの作物は現在のシリアでも一般的に栽培されている。メイエル氏の研究チームは、調査地域の泥の煉瓦を分析し、オオムギの花粉も見つけている。
◆自然の恵みか、人間の努力か
メイエル氏は、パルミラで農業が拡大した原因を気候の変化に求めたくなるかもしれないが、自分としては、かつての農業が人間の創意工夫によるものだったと考えたいと話す。
「古代以降、マクロレベルでは気候に劇的な変化がなかったということで、学者の意見はある程度まとまっている」。
メイエル氏の試算によると、古代のパルミラの住民は、年間120~150ミリの雨をどうにかして集めて水路に流していたという。
◆経済的な利点
パルミラは、交易の中心地としては地の利がなかったはずだが、今回の発見で、この古代都市が繁栄していた理由も説明しやすくなる。
アジアからインド洋、ペルシャ湾経由で入ってきたヨーロッパ向けの品物の一部は、ユーフラテス川を遡上し、途中でキャラバンに積み替えられて、シリアのパルミラを経由し、地中海沿岸の港に運ばれた。
ほかの経路、たとえばユーフラテス川をさらに北上し、現在のトルコに向かう経路や、紅海からナイル川を利用する経路のほうが手間がかからず、早かったと思われるのに、なぜわざわざラクダを使って砂漠を横断したのだろうか。
メイエル氏は、その答えはすべてお金に、そして今回見つかった農場に関係していると指摘する。
2000年前、この一帯は、西の強大なローマ帝国と東のペルシャ帝国に挟まれて混沌とした地域だった。ユーフラテス川沿いには小さな王国が並び、それぞれが舟運を利用する商人から通行税を徴収していた。
これに対して、砂漠のキャラバンの中心地を利用すれば、何度も通行税を払う必要がなく、支払いを1回で済ませることができただろう。基本的にそれを可能にしたのが、パルミラ周囲の農地だったとメイエル氏は話す。
この地域の農民は、キャラバン用のラクダやヒツジをパルミラに連れて行く遊牧民と協力し、収穫後の土地で家畜に草を食べさせていたというのが同氏の仮説だ。
家畜が草を食べるおかげで土地が肥えるという余得もあっただろうとメイエル氏は付け加える。「遊牧民は家畜をつれてやってきてささやかな贈り物を残し、代わりに水を手に入れた」。